日 録

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 1週間ほど、≪日録≫を書かなかった。ただただ、いそがしかった。いそがしくて書く時間がないという直接の因果関係のほかに、いそがしいときは、雑多な苦しみが時間を埋めるばかりなので、身辺には書くにあたいする内容がろくにないということもある。

 たとえば、人文学類広報委員の Web 担当のしごとのひきつぎ(従来はわたしが Web 担当だったが、今年度から広報委員長になってしまったので、委員会内で、徐々にべつの委員にひきつごうとしている)で、更新用のサーヴァーに Web DAV 接続をしてファイルのアップロードなどをするという話をしたとき、Windows 7 で Web DAV 接続をどうするのかが、なかなかわからなかった(わたし自身は、Windows 7 はいまだに持ち歩き用としてしか使っておらず、研究室のパソコンは筑波に転職したときに買った6年ものの Windows XP だ)。
 結局わかったことは、この件にかんして Windows XP と Windows 7 のあいだにある差は、実は、「マイネットワーク」が「ネットワーク」になっているといった、たんなる表記上のヴァリアントというわけではなくて、根柢的なちがいであるということだった。Windows 7 は、そもそも設計思想として Web DAV 接続を想定しないで仕様が組み立てられているようだ(深読みすると、マイクロソフトがユーザーに具体的な操作をなるべくさせないようにして、つまりなるべくブラックブックスとしてパソコンを使わせるようにして、ますますマイクロソフトへの盲目的依存を強めさせる戦略ではなかろうか(笑))。
 それへの対処として、Windows 7 でも実質的に Web DAV 接続ができるようにする "Carotdav" というソフトが開発されており、無料で配布されていることも知った。
 http://www.forest.impress.co.jp/lib/inet/servernt/ftp/carotdav.html
 これなら Web DAV 接続でフォルダーをひらいたときと同様の感覚で使用できる。

 と、このようなことは、書くにあたいすることではなかろう(それなら書くな、といわれそうだが)。

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 最近買った本のうち、3冊に言及してみよう。
 1冊めは、アジェージュ Claude Hagège の Contre la pensée unique。「あたらしいアジェージュがここにいる!」という宣伝文句にたがわず、反グローバル化の旗幟を鮮明にしているようだ。現実にせまられて、言語学者にもこのような本を書くひとは以前よりはふえてきたかもしれないが、まだまだ少数派だろう。
 2冊めは、テニエール Lucien Tesnière の Éléments de syntaxe structurale の訳書『構造統語論要説』。昨年出版した『フランス語学小事典』に、共著とはいえ、テニエールに関連する項目(「図系 stemma」)を執筆したわりには、訳書の存在は知らなかった。もちろん、担当した項目についてはフランス語で読んでいたので、しごとのうえでは問題はなかった(と思いたい)が、全体像をみると、実はテニエールは、きわめて多くの言語を研究し、独自の類型論をうちたてていることにあらためておどろく。その類型論とは、遠心的言語 langue centrifuge と求心的言語 langue centripète の分類であり、これは一見、生成文法などでいわれている右側枝わかれ言語と左側枝わかれ言語に似た発想のように思うが、目をつけているところがちがっているので、結果として出てくる分類もちがっている。たとえば、ロマンス系の言語はいずれも「遠心的」であるのにたいして、ゲルマン系はいずれも「求心的」というように、逆のカテゴリーに入っているのだ。
 3冊めは、渡瀬嘉朗『統辞理論の周辺』。フランス語のみならず日本語も対象として、未完了アスペクトについてなど、わたしの研究テーマとかさなるところもあり、興味深い。実は、ともだちの川島浩一郎くんが、フランス語の半過去にかんする最近の論文のいくつかで、「渡瀬嘉朗先生の諸論文に啓発・啓蒙されて執筆した」むねを註記しておられたのを読み、わたしもいやおうなく興味をもっていたので、その「諸論文」が『統辞理論の周辺』にまとめられて刊行されたことはありがたい。

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 ところで、はじめに、「身辺には書くにあたいする内容がない」と、「身辺には」とわざわざことわったのは、うらをかえせば、世のなかには言及したいことがあるということでもある。
 しょせん、手すさびのブログなので、ふつうはあまりまじめなことは書かないつもりなのだが、それでもたまには書きたくなる場合がある。
 書きたいことのひとつは、なんといっても、福井県の大飯原子力発電所の3号機・4号機の再稼動にむけての過程が、いま着々とすすめられていることにたいする疑義である。
 8日、野田首相は「国民の生活をまもるために再起動すべき」と発言し、大飯原発再稼動にたいへん前のめりの姿勢をあらわにした。しかし、「国民の生活」というなら、そんなものはすでに、昨年の福島原発の事故でとりかえしがつかないほど破壊されてしまったのだ。ここでふたたび原発をうごかすということは、福井でも福島の災禍をくりかえす危険性を作りだすことにほかならない。そのどこが「国民の生活をまもる」ことになるのか。
 またいつ大きな事故が起きるかもしれないと考えるのは、けっして杞憂ではないと思う。むしろ、危険だ、という考えがあまりにもなかったことこそが、福島の事故を生んだのではないか。新しい規制機関ができるまでは、安全基準も暫定的なもののままでよいとするにいたっては、「委細はどうでもいいから、とにかく再稼動させろ」という盲目的な推進にほかならない。
 しかし、きのう(13日)は福井県知事が再稼動に理解をしめす発言をし、きょう(14日)は、おおい町の町長が再稼動への同意を表明し、ことは着々とすすんでいる。柏崎刈羽原発が立地している新潟県の知事は、「再稼動など、議論さえできる段階ではない」と、正当な慎重さを示しており、対照的だ。