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2012年3月、ウズベキスタン出張報告

 3月13日から20日まで、中央アジアのウズベキスタンに出張してまいりました。サマルカンド外国語大学でおこなわれるシンポジウムに参加し、研究発表をすることと、タシュケント東洋学大学でおこなわれる研究会に参加することが目的でした。以下、今回の出張の報告を、時系列にそってしるします。
 時間表記はすべて現地時間で、ニホンとウズベキスタンの時差は4時間(たとえば、ニホンの正午がウズベキスタンの午前8時)です。
 ウズベキスタンは内陸国のみに囲まれた内陸国、すなわち国境をすくなくとも2度越えないと海にでられない「二重内陸国」で、この条件を満たす国は現在、リヒテンシュタインとウズベキスタンしかありません。

 ここで、2点ほどかたかなでの転記にかんする註記。以下では、ウズベク語の、開口度が大きい o は、 O'zbekiston「ウズベキスン」、Toshkent「シュケント」、bozor「バザール」のように、ニホンでア段表記が一般化しているものはア段のかたかなで、そうでないものはオ段のかたかなでしるします。
 また、v のつづり字は、語頭以外では半母音 [w] がウズベク語としての発音ですが、palov「プロフ」などかたかな書きが慣用化しているものは慣用にしたがいました(筑波大学の先輩でもある言語学者、佐々木冠さんが、こちら(<クリックすると別窓で記事がひらきます)で、ルーマニアの Braşov をかたかなでなぜ「ブラショフ」としるす慣用があるか、疑問を呈しておられましたが、いずれも、「かつてソヴィエト連邦の影響下にあった地域に関説するニホン語には、ロシア語的な慣用がひろがっている」という現象の一環である、というのがわたしの仮説です。従来これらの地域に興味をいだいたひとが、ロシア語に親しんでいた、ということは大いにありうるからです)。


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 3月11日(日)
 出国2日まえだが、スーツケースをたずさえて自宅を出たのはこの日の夜。こどもたちに「いってらっしゃーい!」と大きな声で見送られるのは、はげまされると同時に、うしろ髪をひかれる。この日は翌日の後期入試にまつわる業務にそなえ、つくばに前泊。

 3月12日(月)
 後期入試に関する業務のため、筑波大学に出勤。仕事のあいまに中央アジア事務所をたずね、参加者が手わけして運んでゆくことになっている≪第9回文明のクロスロード Sivilizatsiyalar chorrahasida≫(サマルカンド外国語大学でのシンポジウム)の予稿集10冊をうけとる。

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 A4判で、10冊の厚みは15センチにもなる。しごとがおわったあと、予稿集をスーツケースに押し込み、成田にむかう。京成成田駅にほどちかいホテル(といっても、女性社長がへんに目立っていたり、耐震偽装の不祥事をおこしたりした、あのホテルではない)に前泊。

 3月13日(火)
 成田空港にゆき、ほかの参加者たちとゆるやかに集まる。アシアナ航空にチェックインし、託送荷物を送り出したあと、空港内の銀行でニホン円をアメリカドル(700ドル)に両替しておく。ウズベキスタンでは、首都のタシュケント以外ではニホン円を両替できないので、半分ほどの現地用資金をドルでもってゆくことにする。正午ころ出国し、13時ころ搭乗。機内食はカツ丼だったが、チューブいりのコチュジャンがついていて、おどろいた。

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 経由だけでも、韓国に入るのははじめてだ。インチョン空港は香港の赤鱲角空港に似た近代的な空港だ。手荷物検査が1度あるが、すぐに乗りかえ先のゲートにいたりつく。時刻表上の乗りかえ時間がみじかいのが気になっていたが、すばやく乗りかえられる前提でできているのだろう。
 インチョンからタシュケントまでは着席率が半分くらいで、比較的ゆったりとしていた。当然ながら、ウズベク人とおぼしきひとたちが多いが、韓国人もけっこうのっている。韓国企業が多くウズベキスタンに進出しているそうだ。
 定刻21時10分にタシュケントの空港につくが、入国審査、託送荷物受けとり、税関通過がそれぞれ厳格なくせに非効率(!)で、長蛇の行列(カオス的状況のなかで、割り込み多発)で待ちつづけなければならず、空港の外に出られたのは23時近かった。つめたい雨がふっており、ますます絶望的になりかけたところ、タシュケント東洋学大学の菅野先生が雨のなかお出むかえくださり、学生のかたがたも手をかしてくださり、すくわれたような気分になる。
 貸切バスでホテル≪Grande Plaza≫(旧名称 Tata でよく知られる) にむかう。部屋に身をおちつけ、風呂に湯をはり、硬水用のきつい石鹸をあわだてて、空港でかいた汗を洗いながしたあと、ベッドにたおれ込んだ。

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 3月14日(水)
 ゆうべとおなじように、しぐれのような雨がふりつづいている。乾燥帯のはずのウズベキスタンだが、3月は年ぢゅうでいちばん降水量が多いそうだ。
 6時に特別にあけてもらったホテル内食堂で朝食をとり、チェックアウトして、6時45分に貸切のマイクロバスで出発。
 タシュケント駅では、まんまえに横づけすることはできず、駅前広場をへだてた路上に停車。スーツケースをたずさえて階段をのぼりおりして、ながい地下道を抜け、ようやく駅につく。駅ではX線荷物検査、パスポート、切符の点検を受け、ようやく入場(ソヴィエト時代以来の官憲の峻厳さか、はたまたイスラーム世界ならではのテロ警戒か)。
 サマルカンドまでの往路は、昨年末に開通したばかりという高速鉄道 Afrosiyob 号を利用する。専用のプラットフォームがあり、そのプラットフォームに入場するための自動改札を通過する。Afrosiyob はスペイン国鉄の Talgo を輸入したもので、すべるように走り、たいへん快適だった。2時間半でサマルカンドに到着。

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 二重窓が反射するので、車窓の写真はとりづらい。

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 「駅」というウズベク語は、ロシア語からの外来語で、vokzal。
 サマルカンドは晴れていて、すこし屋外にいたら陽やけしそうだ。貸切バスでホテル≪Asia Samarqand≫に移動。ホテルの部屋は赤を基調にした民芸風で、快適だ。

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 ホテルにつき、荷物を置いたら、きのうできなかった両替をする(これまでのバス代、ホテル代、電車運賃はいずれも現地旅行会社を通してドルではらったので、さいわい両替ができなくてもよかった)。50ドルをウズベキスタンの貨幣、スム so'm にすると、約11万スムになるが、いわゆる高額紙幣が存在せず、1000スム札までしかないので、それが100枚以上にもなる。財布に入りきらないので、かばんのポケットにわけて入れる。ニホンでいえば、まるで、50円札か、100円札しかないような状態だ。

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 デノミをするか、少なくとも高額紙幣を作るべきだと思うが、それをしないのはなにか理由があるのだろうか。しかし、ウズベクのひとたちはこの状況に慣れているようで、みんなニホンの銀行員並みにお札を数えるのが器用で、速く、精確だ。「10枚までなら一見してわかる」とか、「それ以上なら、手に持った感覚でおよその金額が言える」と豪語するひともいる。
 ちなみに、1000スム札の絵柄はティムール博物館で、500スム札の絵柄はティムール像。アミール・ティムールは民族の誇りの結集点のようなものか。

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 札束をかかえ、大金持ちになったかのような気分で、サマルカンドで最高級とされているレストラン≪Karim Bek≫にゆき、昼食をとる。赤かぶなど、野菜がおいしい。

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 明日からのシンポジウムの会場であるサマルカンド外国語大学にゆき、各分科会の部屋などを下見する。
 そのあと、いったんは不可能といわれていた学長への表敬が、夕方にタシケント出張から戻られて急遽可能になったとのことで、ホテルで多少ましな服(というのも、わたしはもともとたいした服はもっていないので)に着がえてふたたび大学へ。学長のスィロジッディノウ Sirojiddinov 先生は最近着任なさったばかりで、外国からの表敬をうけるのははじめてだそうだ。しかしそれゆえに、のちのちまでわれわれのことが印象にのこるのではないかと期待する。
 つぎの写真は、学長との面会まえにいったんホテルにかえる道すじにあった、ティムール廟。

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 夕食は≪Registon≫でラグマン Lag'man をたべる。ほそいうどんに、鳥がらとトマトで味をつけたスープをかけ、香草をのせたもので、あえていえばヴェトナムのフォーに似ている。おいしい。

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 3月15日(木)
 いよいよサマルカンド外国語大学でのシンポジウム≪第9回文明のクロスロード≫の当日。午前中は講堂での開会セッションで、学長、ニホン側代表臼山先生のあいさつ、同僚の平石先生の基調講演、そしてサマルカンド外国語大学のニホン語学科の学生たちによるダンスと劇の出し物。

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 学食に移動し、歓迎会をかねた昼食をごちそうになる。

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 午後は分科会。わたしは第1分科会 (Birinchi sektsiya) の最初の発表者であり、司会者でもある。ニホン語での発表に、ウズベク語への通訳がついてくれたが、通訳をしてくれた女子学生は学部の3年生にもかかわらず、専門的な内容をよく訳してくれた。研究会プログラムはウズベク語で書かれており、わたしの発表題目「叙想的時制と叙想的アスペクト」が≪fikrlash zamonlari wa fikrlash aspekti≫と訳されていることを知った。なるほど、時制だけ複数扱いしているのか、とかってに感心する。小むずかしい題名をつけて、ごめんなさい。発表冒頭、≪Assalom alaykum. Mening ismim Watanabe. Tsukuba universitetda Fransuzchani o'qitaman. (こんにちは。わたしの名まえはワタナベです。筑波大学でフランス語を教えています)≫と、付け焼き刃のウズベク語であいさつしたら、拍手された。その後、いちおうの司会者もなんとかつとめて、初日終了。

 3月16日(金)
 朝から雨がふる。午前は分科会。あいかわらず、第1分科会の司会をつとめる。司会者の義務のため、あちらこちらの様子を見ることはできなかったのが残念だったが、知りうる範囲ではたいへん多様で、どの発表も言語接触・文化接触や複数言語のあいだでの対照が問題になっており、≪文明のクロスロード≫にふさわしい研究発表ばかりだったと思う。
 正午ころから講堂で閉会式。ここでも、第1分科会司会者として少しだけ話す機会をあたえられ、分科会とおなじく、付け焼き刃のウズベク語であいさつすると、こんどは拍手喝采が起きた。シンポジウムを誘致し、準備に尽力された前学長が、壇上でニホン側参加者の全員に参加証明書を授与するという、他の国際会議ではあまり見られない光景がみられた。儀礼を重んじるお国柄のせいだろうか。わたしも証明書をもらった(笑)。
 あとできいた話だが、終了翌日の17日、翌々日の18日には、ウズベキスタン国営放送(テレヴィ)の全国版ニュースでも≪文明のクロスロード≫とりあげられたそうだ。
 午後は晴れ、サマルカンドのまちなかを見学した。
 まず、サマルカンドのみならず、全ウズベキスタンの中心といってもよいほどよく知られたレギスタン広場にゆき、それをとりかこむ3つのマドラサ(madrasa、イスラームの神学校)をみる。

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 イスラームの中世は天文学者が格別の活躍をした時代で、ここでも、ウルグベクを中心とする天文学者たちが重要な役割をはたしていたという。

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 サマルカンドは青き都だったが、その青さは、空の蒼さととけあう。

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 つぎに、中央アジア最大のドームをほこるビビホニム・モスクをたずねる。

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 そのあと、スィヨブ・バザール Siyob Bozori にゆく。バザールという名まえから、過去に行ったことのあるチュニスのメディナなどからの連想で、迷路状のほそい路地を囲んで、ひとも店も、ところせましとひしめいている光景をおもいえがいていたのだが、じっさいに行ってみるとそのようなことはまったくなく、堅牢な構造で区切られ、じつにひろびろとした、統制のとれた卸売り市場といったおもむきだ。社会資本はなんでも大きくつくったソヴィエト時代を経たからだろうか、あまりイスラーム的と感じない。

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 ドライフルーツ、香辛料、くだもの、野菜などをみる。
 メロンがラグビーボールのかたちをしていて、やはり瓜の一種なのだということを思いおこさせる。

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 だいこんは全体が緑色、にんじんは赤だけでなく黄色もある。

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 最後は、バザールとむかいあわせの丘の中腹にある、ショヒ・ズィンダ廟群 Shohi Zinda をおとずれる。ショヒ・ズィンダとは「生きている王」の謂いで、不死の伝説を得たイスラームの使徒にちなんでいるという。14世紀、ティムールの時代にたてられた廟が多数ならんでいる。

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 この日の夕食は郊外のウイグル料理店にゆき、すすめられるまま巨大な骨つき牛肉のケバブをたべたが、翌朝まで胃もたれして、このときばかりはぐあいがわるくなった。慣れないことはするものではない。

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 3月17日(土)
 朝食後、9時45分にホテルをチェックアウトして、10時に出発。ニホンからの参加者のうち、ニホン語学・ニホン語教育・ロシア語学関係者はブハラ Buxoro に行くのでここで別れを告げ、われわれフランス語学関係者はマイクロバスでサマルカンド駅にむかう。
 フランス語学関係者だけではこころもとないところだったが、ロシア語学関係者のうち、臼山先生だけが明日からウクライナにべつの仕事で行かなければならないとのことで、タシュケントまで同行してくださるのがこころづよい。
 サマルカンド駅構内のようす。

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 Afrosiyob で来た往路とちがい、Sharq という、機関車が客車をひっぱる昔ながらの特急列車でタシュケントにむかう。所要時間は4時間ほどだが、これはこれで快適だ。車中でサンドウィッチやくだものの昼食をとる。

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 タシュケントについたら、陽ざしがたいへんつよく、暑かった。陽なたでは20度以上あっただろう。しばらくさがしたすえ、東洋学大学の菅野先生と再会し、駅前広場の反対がわで待機してもらっていた貸切のマイクロバスでホテルにむかう。初日に宿泊した≪Grande Plaza≫にふたたび投宿する。
 19日、フランス語関係の共同セミナーをする予定のオタクロウ Otakulov 先生もホテルまできてくださっていて、軽く自己紹介と明後日の相談をした。オタクロウ先生は、初対面でもあたたかいおひとがらがすぐに伝わってくる感じのひとだ。
 夕方、菅野先生と学生のかたがたのご案内で、タシュケント・テレヴィ塔 Toshkent Teleminorasi につれていってもらった。タシュケント市街地のほとんど最北部に位置し、高さは375メートルと、東京タワーより少し高い。半分ほどの高さのところに展望台がある。

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 すぐ近くには、どういうわけか、プールや遊園地、体育館など、スポーツ施設が多い。

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 最後の写真は屋内テニスコートで、屋根が全面開閉できるようになっているという。

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 幹線道路をへだててテレヴィ塔のむかいに、帝政ロシア、およびソヴィエト連邦時代、ウズベク民族がうけてきた抑圧を紀念するため、2002年に設立された圧政犠牲者博物館 Qatag'on qurbonlari xotirasi muzeyi があり、そのまわりが公園になっている。公園では、なん組ものカップルが、結婚式の紀念撮影をしている。もう夕方で、ざんねんながら博物館にははいれなかったが、公園のなかを散歩してきた。
 かえりみちは Bodomzor 駅にむかい、地下鉄でホテルまでもどった。地下鉄はざんねんながら厳重に撮影禁止だったが、階段は大理石でできていて、壁にはモザイクがあしらわれているなど、うつくしい。青い、天井のひくい車両は、モスクワ地下鉄とおなじものだそうだ。だれかが撮った動画が Youtube にあったので、以下にはりつけておく。



 3月18日(日)
 早朝5時、つぎのお仕事のためウクライナにむかう臼山先生をホテルの廊下でお見送り。
 雪がふり、いちにちぢゅう氷点下の気温。寒暖差の大きいウズベキスタンといえども、春分祭 Navro'z のころの雪は例外的で、5年ぶりだという。
 日曜なのでしごとはないが、菅野先生や、学生のみなさんがご案内くださり、タシュケントのまちなかにゆく。
 まず、民芸博物館にゆき、ウズベキスタン独特の織物や陶磁器などについて学ぶ。博物館そのものは往年の大邸宅で、ウズベクの様式とロシアの様式が混淆している。
 
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 つぎにナヴォイ劇場にゆき、そのうつくしい建築をながめる。切符売り場のおばさんが、きょう17時からバレー≪くるみ割り人形≫が最低4000スム(200円くらい!)から見られると教えてくれる。大学院生の3人が、ぜひ見にいこうといっていた。

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 この劇場は、第2次大戦後、ソヴィエトに抑留されたニホン人捕虜の労働によって建築されたという。そのことを示すプレートが壁面にウズベク語、日本語などで書かれているが、その文面は、カリモウ大統領の意向で、「捕虜」ということばをつかわず、「極東から強制移送されたニホン国民」という表現にするよう配慮されたという(ウズベキスタンとニホンが直接戦争をしたわけではないし、ウズベキスタンもソヴィエト時代は被抑圧者だったという共感もあるのかもしれない)。それどころか、べつのところには、捕虜の身で亡くなったニホン人たちのためのりっぱな墓地もあるという。

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 きのう行ったテレヴィ塔のならびに、プロフセンターという大きな食堂があり、そこにつれていってもらう。プロフ palov とは、肉、ひよこ豆、そして特徴的な黄色にんじんが具になった炊きこみご飯のようなもので、ピラフ pilaf の語源になった料理名だ。ニホン人の味覚によくあう。タシュケント風のプロフは、サマルカンドのプロフとちがって「つゆだく」で、鶏卵やうずら卵がはいっている。ニホン人的感覚なら、まちがいなく「牛丼」だ。

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 屋外 (といっても、テントはかけられているが) に大きな釜がならんでいて、プロフはそこでいっせいに大量に調理されている。

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 食後は16世紀にさかのぼるバラクホン・マドラサ Barakxon Madrasasi をみにゆく。イスラーム教はアラビア半島、マレー半島、北アフリカなど、南方性とむすびつけて思いえがきやすいので、雪のなかにそそりたつミナレットは、おどろくような光景だ。

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 最後はチョルス・バザール Chorsu Bosor にゆき、ドライフルーツや香辛料、くだものや野菜などの売り場をみる。ここはドーム型(まるでサッカー・スタジアムのような)の大きなたてもののなかにはいったバザールで、サマルカンドのバザールよりさらに、むりやり近代化されたような感じがする。

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 干しぶどうと、干しチーズ(見かけは北海道のバター飴のようだが、ブルーチーズのようなチーズを乾燥したもので、ビールによくあう)をニホンへのおみやげに買う。
 ナヴォイ劇場にバレーを見にゆく大学院生3人とわかれて、われわれはホテルにもどる。

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 3月19日(月)
 きのうとおなじように雪がふり、寒い。ウズベキスタンでの最終日だが、きのうまで土・日でなにもできなかった反動で、きょうがいちばんの過密スケジュールになっており、うまくこなせるだろうか、と思うと朝から気が重い。
 9時半にホテルをでて、タシュケント東洋学大学へ。ニホン語学関係者といったんわかれ、フランス語学関係者のみでオタクロウ先生に会いにゆく。共同研究室にあつまり、学生をふくめて30人くらいの研究会になる。先方の発表者が学生のみ2人だったので、こちらもつりあいをとって、院生3人に発表してもらう。わたしはいちおうハンドアウトも用意していったが、時間の都合もあり、発表は遠慮した(けっして、さぼったわけではない(笑))。研究会は終始なごやかな雰囲気でおこなわれ、たのしく、有意義だった。オタクロウ先生の鷹揚迫らぬ、おだやかなおひとがらのおかげだと思う。
 研究会が終わったあとは学長に表敬する予定だったが、おいそがしいようで、かわりに研究支援担当副学長のリヒスィエワ Rixsieva 先生が応対してくださる。
 ちなみに、タシュケント東洋学大学の一角に筑波大学の拠点をおかせてもらっており、校門にもそのことを示すプレートがある。

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 大学近隣で昼食をとり、ニホン大使館へ。ここでも大使に表敬する予定だった(というのも、サマルカンドでのシンポジウムにニホンとウズベキスタンの国交20周年紀念行事の指定をうけるなど、さまざまな便宜をたまわっていたので)が、大使はほかのお仕事にお出かけになっているようで、かわりに一等書記官のかたが応対してくださる。おどろいたことに、われわれ筑波大学代表団のなかに、その書記官のかたと十数年まえに同僚だったひとがいた。
 チェックアウト後も大きな荷物だけあずけていたホテルにたちよって荷物をうけとり、帰国の態勢をととのえてから、空港にむかうとちゅうにあるレストラン≪Caravan≫にゆく。民族的な雰囲気を随所に出した瀟洒なレストランでの夕食は、ウズベキスタン滞在をしめくくるに最適だった。

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 空港入場時、出国審査、および通関の際にX線の荷物検査をうけ、搭乗ゲートにむかう。出国時の税関では、入国時の申告書と比較されるべき申告書を書いて提出する。その際、ホテルの宿泊証明書を確認されたり、場合によっては所持金の実額をかぞえられる、といわれていたが、税関の係員は書類にひととおり目をとおしただけで、ただちにスタンプを押し、すんなり通過させてくれた。しかも、係員はたいへんにこやかだった。しかも、絶世の美女だった。さいごにウズベキスタンの印象が格段によくなった(哄笑)。
 アシアナ航空のインチョンゆきの便にのると、来るときよりは少し混んでいて、着席率7割くらい。つばさに付着した氷をおとしてから飛びたつということで待たされ、30分ほどおくれて離陸。搭乗券の席はおなじ研究会関係者ととなりの席だったが、べつのところに2席ならんで空いているところをみつけて移動する。しかし熟睡はできず、うとうとした程度。

 3月20日(火)
 インチョンまでの便がおくれたせいで、飛行機をおりたときにはすでに乗りつぎ便の搭乗がはじまっているというぎりぎりの時間になり、不安だったが、荷物検査をうけ、大急ぎで移動したら間に合った。成田には定刻12時10分に到着。雪のタシュケントから到着すると、ニホンは暑い。同行したかたがたと成田空港で労をねぎらいあい、それぞれ帰途につく。
 この日、ニホンは春分の日で休日。わたしが自宅にかえりつくと、娘がとびあがって、コアラが木につかまるように、わたしの腰に抱きついてくれた。これでこそ、ほんとうに帰宅したという気がする。

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 ウズベキスタンというまったく未知の国へ、しかも筑波のフランス語学関係の大学院生に対しては「引率者」という立場で行くのには不安もありましたが、終わってみれば、たいへんよい機会だったと思います。
 仕事の関係でもっとも印象にのこったことは、ウズベキスタンの学生(ニホン語で接したひとも、フランス語で接したひとも)の言語的な能力がたいへん高いということでした。やはり、複数言語状況のなかで生きていると、ふだんから言語学習の素地ができているのではないかと思います。