日 録

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 こよみの「大寒」。その名のとおり、いちにちぢゅうみぞれがふりつづく。
 旧冬12月上旬から断続的にすすめている主語不一致ジェロンディフの例文収集は、電子コーパスをもちいているとはいえ、主語の不一致を認定するには結局すべての例を読まなければならず、粘着的なまでの、ただならぬ根気が必要になる。
 わたしはナマケモノのわりには、こういうことにかんして(だけ)は根気があるつもりなのだが、それでも、たいへんな長丁場なので、調子が出たり出なかったりで、いまはいささか失速ぎみだ。
 このようなときは、obstination をふたたびやしなうためにも、例文収集をいったん中断して、かわりに、いつ役にたつか確信のもてない、いや、どちらかというと、おそらく役にたたないであろう文事(研究、とはいえない段階なので)に時間をさくほうががかえって得策と判断し、じっさい、きょうはそのようにした。
 この、「おそらく役にたたない」というのは、「実利」がおそらくないだけではなく、純粋な(したがって、世間的にはすでにおおむね無益とされる)研究としてはいちおうの成果とみなされる、論文などのかたちにするという意味での有用性もおそらくないだろう、というようなしろものだ。
 しかしこうした、有用性から二重に断絶しているとみなされることをせっせとしていると、いいようのない多幸感 euphorie がわきおこってくるものだ。忙中閑あり、というほどの状況ではない。山づみの義務的な課題を横目にみながらも、こうしたことに時間をついやすことは、精神的な必要性であるような気がする。こころの救いをもとめて、まぎれこんでゆく場とでもいおうか。
 このような傾向をかかえこむにいたったのは、もしかすると、「なにをしても、大局的には役にたつものだ」といった、ものわかりのよい言説を、わたしは大学院に入学したころからしか、多数性をともなってきくことができなかったせいかもしれない。
 きょう1日をついやした「よしなしごと」にかぎらず、ひろい意味で考えなおすと、わたしの場合は「実利」からの遁走こそが研究の原動力になっているように思う。これはつくづく、現代の(とくに、学問にも社会貢献がもとめられる昨今の)研究者をつとめるには適していない性向だ。