日 録

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 3月にかたづいたと思っていた問題が連休寸前に蒸しかえされ、対処に苦慮しました。
 連休まえに、できることはしておいたつもりですが、すでにきちんと対処したはずだったにもかかわらず問題が再燃したのですから、今後も予断をゆるしません。
 そのような騒動もあり、新年度の疲弊にとどめをさされたような気になっておりましたが、わたしは根っからのナマケモノなので、いざ連休に突入してみれば、うれしくて、それだけで少しばかり元気がよみがえってきました。
 だいたい、わたしは大学院博士課程5年間のあと学振の特別研究員になり、そのなかで29歳から31歳のときまで留学してくるなど、書生生活が長かったので、徒食者根性が満身にしみこんでいると自覚しております。
 このことは、うらをかえせば、「毎日が休み」のような環境におかれてはじめて文事が進む、ということでもあります。
 この連休のおかげで、『パロールの言語学』の再校など、すでにいくつかの課題をかたづけることができました。

 しかし連休は、昨年同様、息子の中学校が連休明け早々に中間試験をひかえており(早め早めに試験をして、生徒を「追いまくる」主義の学校らしい)、必死で勉強しているので、娘だけを妻とわたしのどちらかが近場に遊びに連れ出す程度です。

 ただし1度だけ、わたしの楽しみとして、きのう(4日)、昨年5月以来まる1年ぶりで、新宿3丁目にあるヴェネーツィア料理店 « イル・バーカロ » (Il Bacaro) にゆき、アラビア語学の榮谷さん、スペイン語学の木村さんを中心に、わたしをふくめて総勢5人で飲みかわしてきました。
 みんな、なんらかのかたちで外国語にかかわっているので、はなしが合い、いごこちがよいものです。

  « イル・バーカロ » は昨年、榮谷さんがご紹介くださったお店です。
 ヴェネーツィアということから、わたしはおはずかしいことに、「船」の barca から作った barcaro という語だろうと勝手に推測し、ひとりだけ「バルカーロ」などといっていたのですが、ただしくはもとのカタカナ表記のとおり「バーカロ」で、ヴェネーツィアに独特のオステリーアの形態をさす語でした。
 http://it.wikipedia.org/wiki/Bacaro
 上記アドレスのイターリア語版ウィキペディアでも、説明文中で強勢位置(bàcaro)をわざわざ表示しているところをみると、イターリアでも地域によってはなじみのない語と思われます。小学館『伊和中辞典』にはのっていませんでした。
 ちなみに、バーカロの語源は酒神のバッコス Bacchos です。このため、「バッコスが跋扈するようなお店」というだじゃれをいいたくなります。その名のとおり、バッコスに祝福されたような酒宴になりました。

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 榮谷さんから共著書『外国語教育は英語だけでいいのか』をご恵投いただきました。

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 高校で複数の外国語を必修化することを提案する書物です。また、これを書いたひとたちは、きわめて具体的な提言を作成し、文科省にも提出したという、実行力のあるひとたちです。
 実際、「グローバル人材育成」とやらを旗印にしている文科省が、高校で英語以外の外国語教育に本腰を入れなければ、かけ声だけか、ということになりますね。

 ついでながらもうひとつ、言語学的な話題を。
 カタルーニャ語や、オック語の一部(ガスコーニュなど)で、<「行く」型移動動詞+不定法>の迂言形が未来ではなく過去をあらわすようになっていることは、つねづね不思議に思っております。
 これについては、モンペリエ大学のオック語学者 Gérard Joan Barceló の論文、
 を最近よみかえし(というのも、2009年にはじめて未来時制に関する論文を書いたとき、いちどはよんだのですが、そのときは単純未来形におもな関心があったので、迂言的時制についてはまだ考えておりませんでした)、「認知派」のなかでも生半可なひとがしそうな説明、すなわち、「行く」の方向性がふたつあるからだ(moving-time metaphor と moving-ego metaphor)というのは、カタルーニャ語やオック語に関してはまったくのまちがいで、過去用法が出てきたのは、語りの文脈(つまり、完全に時間の流れにそう叙述)で、過去に視点をおいてつねに未来方向へと話をすすめていたことから、「行く先としての未来」が過去におかれた、というのが正しい解釈だといまさらながらに確信しました。つまり、過去用法も未来用法も一貫して moving-ego metaphor だけなのです。

 ちなみに、カタルーニャ語の迂言的過去形について、コレージュ・ド・フランス名誉教授のクロード・アジェージュ(Claude Hagège)大先生の所説が完全にここでいう moving-time metaphor の臆見にはまっていしまっています。

 With the regard to the time before ego's discourse, then, the itive implies motion starting from ego, crossing a past event which has really occurred, and becoming thereafter more and more distant from ego. This explains such Catalan examples as (110) below, in which the itive indicates the past:
(110) Ahir vaig esmorzar amb el meu germà.

------Claude Hagège (1993) : The Language Builder, John Benjamins, p.103

 ここでいう itive はラテン語 ire から作ったものなので、「行く」型移動動詞をさします(ときに antative ともいわれます)。
 アジェージュ大先生によると、カタロニア語で「行く」型移動動詞が過去をあらわすにいたったのは、「すぎさって、遠ざかってゆく過去」という考えかたからだというわけですが、上述のように、これはとんでもない間違いです。

 くろしお出版で来年発刊予定の文法化・構文化の論文集にわたしも書くことになっているのですが、このあたりの事情もふくめて、フランス語および西ロマンス諸語における「行く」型移動動詞の文法化について書いてみようか、と思案しております。
 こころおぼえのために、すでによんだもの、これからよみたいものをとりまぜて、参考文献を書いておきます。

[翌日追記] 偶然見つけた論文、
によると、なんと、ガリシア語にも<「行く」型移動動詞+不定法>で過去をあらわす用法があるそうです!!!
はじめて知りました!!!