日 録

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 きょうは筑波でひとこま授業をつとめたあと(ちなみに、筑波大学では2月末まで学期中です(泣))、3年生のみなさんの卒論仮題目申請の書類作成に応じ、さらに人文学類の専攻説明会に参加する。言語学主専攻フランス語学コースの説明を担当した。
 説明要員としてフランス語学の学生2人を学類予算で短期雇用している。卒業をまぢかにひかえたHさんと、3年生のIくんが加わってくれた。
 わたしがまったりと説明をしたあと、学生のみなさんに「いつわらざる内情」を話してもらおうとすると、HさんとIくんがたいへん要領よく話してくれて、助かった。というか、わたしは行かなくてもよかったほどだといっても過言ではない。
 だいたい、専攻説明会全体の計画・運営(教室、時間の割りふりなど)も、学生の委員会の主導でうまいぐあいにしてくれているし、すぐれた学生というのは、じつはほとんど教員要らずだ(笑)。
 そういえば、2006年、わたしが筑波大学に転任した初年度から主任指導教員(修士論文の主査)をつとめたFさんも、「指導」とは言い条、自分でどんどん研究をすすめてくれて、わたしのほうの感覚としては、ときどき議論の相手をしたという程度の感覚しかない。
  「できのいい学生を担当すると、ラクでよい」という結論にもってゆきたいわけではない。学生を自律させることが教育の目的であるとするならば、教員はもともと、みずからを不要にすることを目ざす逆説的な職業なのだ。

#翌日追記:教員が不要になるのは、とくに大学では必然的である。マックス・ヴェーバー『職業としての学問』(岩波文庫p.59) から引用する:
「満室の学生諸君! 諸君はこのようにわれわれに指導者としての性質をもとめて講義に出席される。だが、そのさい諸君は、百人の教師なかのすくなくとも九十九人は人生におけるフットボールの先生ではないということ、いな、およそいかなる人生問題についても「指導者」であることをゆるされていないということ、を忘れておられる」