日 録

 きのうからきょうにかけて、大学院入試のためつくばに泊まりこんだ。
 きのうは筆記試験の出題者として、試験時間中に万一質問などがあったときのために、ながい待機時間があったが、そのあいだはいわば「裏番組」として、研究会の運営上の相談ごとと、来月予定されている学類の入試の準備をいくらかした。
 きのうの夜は、「つごうがついて、飲みたいひとだけ」といってかねてよりさそっていた学生4人と、わたしをくわえて5人で、れいによって « 百香亭 » にゆき、円卓をかこんで、名物の黒酢の酢豚、麻婆豆腐などをたべながら、ビールをのんできた。

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 きょうは午前中、面接のしごと。面接はするがわもされるがわも緊張するが、なんとかつとめた。
 朝から湿った雪が降っていたが、面接がおわって、昼前ころがいちばんのピークだった。積もるほどではなかった。

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 午後はきのうとおなじふたつの「裏番組」のつづきをこなし、いずれもいちおう今週できそうなことは済ませることができた。
 夕方から出るべき会議があり、おわったあと帰途につく。

 かねてよりよみたかった2冊の書物を手にいれたが、時間にめぐまれないので、当面は「積ん読」にならざるをえない。

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 センター試験にまつわるしごと(さいわい、試験監督ではない)があり、先週末は金曜から日曜まで筑波に泊まりこみ、土曜と日曜、7時30分から試験会場にて勤務した。
 ことしは去年とちがって雪がふらなかったので、天候が原因となる事故や時間変更などもなく、おおむね問題なくおわった。
 1日めは、早朝のあいだだけ、すこし霧がかかっていた。

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 2日めの朝。

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 わたしの担当の試験場では、1日めは、悪名高いリスニング試験で、機器の不具合のため再開テストを実施することを余儀なくされ、20時15分ころになってようやく解散できた(2日めは18時30分ころ解散)。
 なん時までかかるかわからないので、ひととあらかじめ約束しておくこともできず、« 百香亭 » でひとりさみしく夕食。

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 センター試験の時間のかけかた、そして手つづきの複雑さを思うと、前期、後期入試とも、大学が自前で実施する入試がいかに簡明にできているかがよくわかる。
 それなので、センター試験がおわれば、ある意味ではいちばんたいへん入試業務がおわったという気分になる(<この気分を「油断」ともいう)。
 きょうは、近所の神社で「どんど焼き」をする日で、こどもたちの入っているこども会とも関係があるので、16時ころから家族でつれだって行く。
 過去には、近所の広場で、昼間の明るいうちにもよおされる「どんど焼き」に行ったことはあった( http://palantien.blog137.fc2.com/blog-entry-127.html )が、きょう行ってきたのは、小規模な神社で、17時ころに点火して、夜の暗さのなかで燃やすので、こちらのほうが野趣があるように感じた。

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 今回は、たまたま神社の賽銭箱を更新したとのことで、古い賽銭箱もおなじ火にくべられ、盛大にもえあがっていた。

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 こどもたちのお楽しみとして、だんごを棒にさして焼き、熱いところをたべるというのは、いずこも同じ。

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 多忙にとりまぎれ、気がつくと、としがあけてからまだいちども « 日録 » を書いていなかった。

 正月2日だけはすこし雪が舞ったが、それ以外はずっと快晴で、この時期は関東地方に住んでいてよかったとおもう。
 今週、つくばに出勤するときは、利根川にかかる橋梁をわたるまえ、ひろいくだち野のむこうに、富士山の白峰がみえた。

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 世間ではきょうから成人の日まで3連休のようだが、わたしはきょうはフランス語学会の学会誌査読会議で、早稲田大学戸山キャンパスへ。
 33号館の16階(最上階)にある会議室からは、たいへんながめがよい。スカイツリーもみえる。
 きょうのような真冬の乾燥した晴天の日は、年ぢゅうでもいちばんよく見わたせることだろう。

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 以前は査読のしごとは、「自分の論文もままならないのに、ひとの論文を評するなんて」などと心理的な負担を感じたものだが、近年はようやく淡々としごとができるようになった。
 これはけっして、「自分の論文もままならないのに」という条件が解消したわけではなく、たんに、としをとって、いくらかは感じにくく、動じにくくなった(ある種のアタラクシア ἀταραξία ないしアパテイア ἀπάθεια というものだろうか)ということだろう。
 「四十にして惑わず(不惑)」というが、四十からはずいぶんおくれて、類似の境地がやってきたようだ。

 * * * * *

 2012年に公刊された拙論、「叙想的時制と叙想的アスペクト」( https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=27379&file_id=17&file_no=1 )を準備したころから関心をもっている「認知モード」について、最近考えていることをしるしてみたい。「認知モード」は、金沢大学の中村芳久先生が提唱しておられる概念である。
 わたしが注目している認知モードは「Iモード」と略称される、相互作用的な認知モード (Interactional mode of cognition) である。認知対象となるはずの状況のただなかに認知主体が身をおき、四囲の状況との相互作用をとおして認知をおこなうしかたである。
 たとえば、たまたまひとつまえの記事でも引いた川端康成の『雪国』の劈頭、「国境(くにざかい)の長いトンネルをぬけると、雪国であった」という文は、上越線の列車で上州側から越後側へと出てくるときのようすを、あたかも車窓からみているようにえがき出しているので、「Iモード」を反映する文の典型とされる。
 それにたいして、おなじところの Edward Seidensticker による英訳は、"The train came out of the long tunnel into the snow country" となっており、相貌が一変する。すなわち、もはや現場に視点はおかれず、そこから離れて(displaced)、客観的に、いわば神の視点からえがき出す、「Dモード」(Displaced mode of cognition)を反映する文になっている。
 もちろん、「Dモード」でのべる場合も、認知主体は認知の場から本当に離脱することはできないので、じっさいには「Iモード」を基本としながらも、視点のみを擬制的に離脱させるのが「Dモード」であるといえる。
 ちなみに、藤森文吉と Amiel Guerne 共訳による仏訳はどうなっているかというと、"Un long tunnel entre les deux régions, et voici qu'on était dans le pays de neige" というように、前半を名詞句のみで処理し、後半を直示語 voici ではじめるなど、Iモード的な臨場感を重視しており、日本語に寄りそってきているかのように感じる。
 これは端的な例であるが、言語ごとに好まれるモードがことなることがかいま見られる。
 
 これらふたつの認知モードは、いくつかの哲学的な文献と関係づけられるように思う。

 ひとつはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』だ。
 同書緒論からして、つぎのようなことを言っている。

 「純粋の « quale » は、世界がひとつの見世物であって、自己の身体が機械であり、そして公平無私な精神がこれらを冷静に認識する、という場合に、初めてわれわれに与えられるであろう。これに反して感覚作用は、性質に生命的な意味を付与し、まず第一にそれを、われわれにとっての、われわれの身体というこのどっしりとした塊りにとっての、意義においてとらえる。こういうわけで感覚するということは、つねに身体への指示をふくんでいる。肝心なことは、景観の諸部分の間に、もしくは景観と受肉した主体としての私との間に、織りなされた独特な諸関係を了解すること、つまり知覚された対象が眺めの全体を自己自身のうちに集約し、生の一断片全体の似姿(imago)となることが可能となる、あの独特な諸関係を了解することである。感覚するということは、世界をわれわれの生活のおこなわれる親しい場所としてわれわれに現前せしめる、世界との生き生きした交流である」(中島盛夫訳、法政大学出版局刊行の訳書で104ページ)
« Le pur quale ne nous serait donné que si le monde était un spectacle et le corps propre un mécanisme dont un esprit impartial prendrait connaissance. Le sentir au contraire investit la qualité d’une valeur vitale, la saisit d’abord dans sa signification pour nous, pour cette masse pesante qui est notre corps, et de là vient qu'il comporte toujours une référence au corps. Le problème est de comprendre ces relations singulières qui se tissent entre les parties du paysage ou de lui à moi comme sujet incarnée et par lesquelles un objet perçu peut concentrer en lui-même toute une scène ou devenir l’imago de tout un segment de vie. Le sentir est cette communication vitale avec le monde qui nous le rend présent comme lieu familier de notre vie. » (原書 pp.64-65)

 ここでいわれている、「純粋の « quale »」と「感覚(すること)」との対比は、まさしく「Dモード」と「Iモード」との対比と質的には同様の扱いが可能であると考える。とりわけ、「感覚(すること)」において、状況全体とのかかわり、相互作用を重視しているところが注目される。
 第一次世界大戦で砲弾をうけ、大脳の一部に損傷を負ったシュナイダー氏が、ある種の象徴や隠喩的な紐帯が直感的に(すなわち、この世界を生きる身体性に根ざして)は理解できず、概念的に説明されてはじめて了解できるなどの症例をとりあげるとき、「相互作用」ということばは、メルロ=ポンティ自身によっても明示的にもちいられている。

 もうひとつは、ギブソンによるアフォーダンス(affordance)の理論である。
 認知言語学の領域で認知モードとアフォーダンスを明示的にむすびつけたのは、本多啓(2003)『アフォーダンスの認知言語学』(東京大学出版会)であるが、まだまだ個別言語に即した議論はつくされていない。
 とくにフランス語には、じつは日本語と同様、「Iモード」的にとらえられる事象がすくなくないので、同時に、アフォーダンス理論と親和性のある事例が多いような気がする。
 それは、語彙のレヴェルにおいてもいえることで、3月刊行予定の拙論、「Essuie-tout の意味論」で提示したいくつかの語彙が、キャディオとネモ(P. Cadiot et F. Némo (1997) : « Pour une sémiogenèse du nom », Langue française, 113, pp.24-34)のいう「外在的特性」、すなわち、指示対象そのものではなく、人間が指示対象ととりむすびうる関係によって規定される、という事例があり、これはかなりの程度フランス語の語彙の特徴であるといえる。
 わたしが独自に着目した例は後日「Essuie-tout の意味論」をおおやけにするので、キャディオらがあげている例のみ言及しておくと、client という名詞がある。拙論からキャディオの祖述をしている箇所を引用する:

(1) [記者が仲間に、政治家に関していう] C'est un client plutôt facile. (Cadiot et Némo, p.27)
  どちらかというと与しやすい「お客さん」だよ。
(2) [サッカーの解説者が、オーセールのチームの対戦相手に関していう]
  Le prochain client d'Auxerre en Champoinnat d'Europe sera d'une toute autre trempe. (ad loc.)
  ヨーロッパ大会で、つぎのオーセールの「お客さん」は格別によく鍛えられていますよ。
(3) [運送業者が仲間に、運んでいる家具に関していう]
  Va falloir faire très gaffe, le prochain client coûte la peau de fesses ! (ad loc.)
  うんと気をつけなきゃ。つぎの「お客さん」は目の玉がとびでるほど高いからな。

 これらの例にみられる « client » は、たとえば商業的局面での顧客というような、指示対象のがわの性質 (これを Cadiot と Nemo は「内在的特性」(propriété intrinsèque) とよぶ) によって把握することはできない。ここでは « client » は、どの例においても「需要者」にはあたらないからである。たとえば (1) の例では、「需要者」はむしろ、新聞や雑誌を買ってくれる読者であろうし、(2) では入場料をはらってサッカーを観戦する観客、(3) では引っ越しの発註者であろう。それどころか、« client » は、人間である必要もないし、生物である必要さえない。(3) では、つぎにはこぶ家具が « client » と名ざされているのである。「内在的特性」による記述が、どうしても失敗せざるを得ないゆえんである。
 Cadiot たちは、そのかわりに、「外在的特性」(propriété extrinsèque) という概念を提唱する。「外在的特性」とは、ひとが指示対象とのあいだでとりむすぶ関係のタイプ (le type de rapport que l'on entretient avec lui [=l'objet] (ibidem, p.24)) のことである。« client » に関していうと、その「外在的特性」は、« qu'il faut prendre en charge » (責任を負うべき (相手))、« dont il faut s'occuper » (世話をするべき / 関わり合いになるべき (相手)) のようにあらわすことができる。そして彼らは、語の意味とは、外在的特性にこそあるという興味ぶかい主張を提出する。外在的特性こそ、見かけ上の解釈の多様性をひろくカバーでき、歴史的変遷に対しても安定している要素であると考えているのである。

 「外在的特性」とは、けっきょく、認知主体たる人間からみれば認知対象との「相互作用」のことであり、また、人間にとって対象がどのような行為をアフォードするかという意味では、アフォーダンス理論とのつながりがあるように思う。
 ギブソンのいう「物理学的物理学」(physical physics)と「生態学的物理学」(ecological physics)の対比は、キャディオらのいう「内在的特性」(propriété intrinsèque) 、「外在的特性」(propriété extrinsèque) の対比と平行的にとらえられるし、ひいては「Dモード」、「Iモード」の対比にもつながってゆくだろう。

 さらに、フランス語から特徴的な例をひくと、 sourd という形容詞は、「耳のきこえない」という、ひとをさす意味と、「音のひびかない」という、認知対象をさす意味の両方がある。
 aveugle も、「目のみえない」とならんで、「光を通さない」という意味もある。
 フランス語には、このように、認知主体と認知対象をひとしく扱うということが、さまざまな品詞にわたって多いような気がする。
 動詞 sentir も、ひとを主語にすると「感じる」であるが、Ça sent bon というと「よい香りがする」ということになる。
 動詞 gratter は「ひっ搔く」であるが、Ça me gratte というと「かゆい」。わたしは学生のころ、Ça me gratte 型の表現は、「ひっ掻く」を先取りしている(j'ai envie de gratter)のかと思っていたのだが、「ちくちくして痛い」程度の感覚も、ものを主語にして gratter を使う(Le col de mon pull me gratte「セーターの首すじがチクチクする」)ので、かゆいときはすでに軽く掻かれている(≒ça pique)ように感じているとみたほうがよいだろう。
 Ça sent bon, ça me gratte, ça pique ともに指示代名詞 ça をもちいているところが注目される。これについては、大阪大学の春木仁孝先生が2014年発刊の論文、「Çaを主語とする発話と認知モード」『フランス語学研究』48号で論じておられ、「Iモード」の概念で<ça + 動詞>の文を説明できるとしておられる。
 春木先生は、たとえば ça craint「やばい」、ça urge「非常事態だ」ça chauffe「たいへんなことになる(←熱くなる)」のような例を中心として、状況全般を ça でさし、「認知主体が当該の出来事、状況を自らがその中にいるかのようにインタラクションを通して捉えているときに ça を主語とする発話が用いられる」(同論文72ページ)としておられる。
 このこともまた、アフォーダンス理論とのかかわりが強いように思う。「かゆい」が「ひっ掻く」をアフォードし、「音のひびかない」が「耳のきこえない」をアフォードし、「やばい」が「おそれる(craindre)」をアフォードするというように、アフォーダンスを紐帯として意味のひろがりがとらえられるようだ。

 じつは、わたしの前任校、玉川大学で同僚だった(そして、いまは立教大学に移られた)河野哲也先生が、博士論文はメルロ=ポンティに関するものであったが、その後、アフォーダンス理論についての著書をいくつも出しておられるので、メルロ=ポンティからギブソンへのつながりは自然なことであるように思える。

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 『エコロジカルな心の哲学』(勁草書房エニグマ叢書1、2003年)、『環境に拡がる心』(同叢書8、2005年)、いずれもアフォーダンス理論をあつかったもので、たいへん参考になる。

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 いずれ、認知モードとアフォーダンス、そしてフランス語の特徴を関連させた論文を書きたいと思っている。
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