日 録

 つゆどきとはおもえない、乾燥した晴天。しかも涼しい。ヨーロッパの初夏のようだ。きょうのつくばの最高気温は22.5度。

 変則的3期制をとる筑波大学では、1学期は原則として6月まででおわる。わたしの担当科目も正式の平常授業は昨日が最終だった。
 全学的にはきょうから試験期間だが、きょうは担当している3・4年生むけの専攻科目で、講読の進度がおそめだということもあり、例外的に平常授業に準ずるかたちで補講をした。
 明日、べつの科目で試験や課題提出の受けつけをすませれば、筑波の1学期はめでたく終了する。やれやれ、といった感じだ。
 もちろん、7月も大学院入試や大学説明会などのしごとがあるので、たいへんなことにはちがいないが、授業がなくなるだけでもありがたい。

 どのようなリズムで学期をすごしてゆくのがよいかは、慣れによるところが大きいが、わたしは現在の筑波の変則的3期制がどちらかというと好きだ。わたしはどうも疲れやすので、学期が小きざみになっているほうが、すっかり疲れきるまえに休みになり、体力的に潰滅しないですむ。とくに、夏やすみの開始が早いのがありがたい。
 そのかわり、9月は1日から2学期と、他大学にくらべて夏休み明けが早い。11月後半に2学期試験をして、下旬に「秋休み」があるのはいいが、12月から2月までが3学期。ほかのほとんどの大学で授業がおわっている2月まで学期中というのはきつい。2月下旬は、学年末試験と前期入試の両面作戦になる。

 この変則的な学年暦が、とくに3年から4年になる春休みに就職活動をはじめる学生にとって、2月を活用できる他大学の学生にくらべて不利になるとか、さらには、教員にとっても、大勢にそったスケジュールで進んでいる学会活動などにも支障をきたす(<はじめるまえからわかりきったことだ!)、というような意見が多かったこともあり、筑波大学も来年度からとうとう2期制に移行することになってしまった。
 もちろん、いま書いたような意味ではメリットがあるのだろうが、この2期制移行にともなう理念には、かなりゆれがあるように思う。
 たとえば、「筑波大学における授業運営体制の改革に対応する運用ガイドラインの概要」(<題名部分をクリックで別窓詳細)という資料の2ページにある、つぎのくだりはどうにも理解できない。

 「(2) 授業時間や時限(開学当初からの方針を踏襲、単位制度の趣旨)
 他大学を先導する本学の役割を明確にするために、1コマ=75分授業を維持する。」


 まず、「開学当初からの方針」がほんとうにそれほど「他大学を先導する」ものだったなら、3期制を撤廃する必要はないではないか。
 「他大学を先導」どころか、この方針が他大学から完全に孤立していたからこそあらためようとしているのではなかったのか(医科単科大学や、総合大学でも医学部だけ3期制というところは結構あるようだが、総合大学で全学的に3期制なのは筑波とICUくらいだろう)。
 「他大学を先導する」ものだったといえるのは、75分授業に関してのみであって、3期制はだめだった、といいたいらしい。これは、都合のよいところだけ自己評価を高くしておくダブルスタンダードにほかならない。率直にいって、このような矛盾をふくんだ文書を公開している大学がはずかしい。
 とはいえ、2期制への移行はすでにきまってしまったので、人文学類で教育課程委員をつとめているわたしは、これから来月にかけて、新課程表の作成などをしなければならない。
 しかも昨年から導入され、バグ続出だった学内の新オンラインシステムで科目一覧の編集などをしないといけないようで、いまから思いやられる。

 さて、愚痴はこれくらいにして、きょうの記録にもどろう。
 補講をひとコマすませたあと、夕方まで、来週の大学院入試にかかわる準備的なしごとをばたばたとしていた。

 かえりみち、買い物をしようとつくば駅前の≪クレオ≫にたちよると、わたしが学生だったころつくばにあった伝説的な文化拠点≪AKUAKU≫(<クリックで別窓詳細)を運営しておられた野口さんと、20年ぶりくらいで偶然再会し、しかもおどろいたことに、わたしの顔をおぼえていてくださった。とてもなつかしく、うれしい。
 ふだん、長距離通勤をしていると、このように偶然ひととあう機会はあまりない。ながい行程の両端をめざして急ぐばかりで、まるで閉ざされた細長い筒のなかを往還しているような状態になる。ここでニンゲンらしさをとりもどすには、いくらか道草をくうこともだいじだ、とあらためて思う。ふたつまえの記事に書いた、≪非日常≫の意義と似たようなことか。

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 帰宅したら、ひつじ書房からでた『フランス語学の最前線1』の献本がとどいていた。たのしみに読ませていただきたい論文も数多いが、この論文集にはひとつ問題があった。
 この書物は4年以上まえから「近刊」の広告がでていて、はるかに早い刊行時期を明示的に予告していたこともあったが、どういうわけか、編集に異常にながい時間がかかったらしく、やっとのことで出たものだ。
 執筆者のひとりからきいた話では、刊行時期が延引に延引をかさねるあいだ、早くから提出してあった原稿がずっと寝かされていたという。
 そんなことをしたら内容の鮮度が落ち、「最前線」という看板がいつわりになってしまいかねないではないか。しかるに、巻頭をかざる編者自身の論文が、なんと1990年に公刊した論文に手をくわえたものであると明記されていた。なるほど、なるほど、20年以上経っても「最前線」を自負できるのならば、4年やそこらの遅延など、気になるはずもない。
 じつはわたしも、6年くらいまえに、同シリーズの別の巻の編者を担当なさる予定の先生から、執筆を依頼された記憶があるのだが、第1巻がでるまでにあまりにながい時間がたってしまったので、はたして執筆依頼そのものがいまなお有効なのかどうか不明だ(哄笑)。
 きょうは月に1度の研究会、および学会例会の日(いずれも下線部をクリックすると別窓で詳細がひらきます)。
 1週間はたらいて、つかれてはいたが、きょうにかぎっては嬉嬉として土曜を返上し、茗荷谷にむかう。

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 研究会は筑波の大学院生、津田さんの発表で、「―先行研究の検討―」というひかえめな副題に反して、たいへんおもしろい発表だった。他大学の先生がたからも肯定的なコメントをちょうだいしていて、今後に期待できる(わたしなどは、「筑波にはすぐれた院生がいて、いいですね」とさえいわれた)。

 学会例会も、慶應義塾大学、東京外国語大学ふたりの大学院生で、おふたりともわれわれの研究会でも発表してもらったひとなので、応援的な心情でお話をうかがった。わたしの質問やコメントをいじわるとおもったひとはいないだろうと思うが、応援的心情だということは強調しておきたい(笑)。

 おわったあと、池袋のイターリア料理店、≪Ghiottone≫にくりだし、はじめだけビール、そのあと赤ワインをのみながら話す。たのしい思いをした。

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 5月13日の日録にも書いたように、ふだんは比較的禁欲しているのだが、ゆるやかな節制であり、とくに、学会の懇親会など、公的な場には行くことにしている。それで、ここにも嬉嬉として参加した。
 ≪Ghiottone≫は、わたしが立教で非常勤をしていたころ、学生たちといっしょに3度ほど食事にきた、思い出ぶかいところでもあるが、きょう、学会例会のあとの懇親会でここにこようときめたのは、わたしではなく、ほかのひとたちなので、たいへん奇遇だとおもった。
 イターリア語で ghiotto とは食いしんぼうの意味で、それに拡大辞 -one がついているから、「大食漢」みたいな意味だよね、と当時も言っていたような気がする。なつかしい。
 梅雨の晴れ間で、暑くなった。

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 午前中、町田市役所にゆき、娘の幼稚園の就園奨励費補助金の申請や、4月から従来の「子ども手当」から制度が変更され、6月から支給されることになった「児童手当」の手続きをする。
 昼食に、市役所まえの店、≪おやじ≫で、名物の「おやじ麺」をたべる。中華鍋でスープを野菜とともに熱してつくる、むかしながらの札幌ふうのみそラーメンだ。

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 かつてはこの店はたいへん繁昌していて、昼どきになると行列ができていたものだが、いまはそうでもなくて、正午ころでも空席がある。町田のまちなかには、つぎつぎと新しい趣向をこらした競合店がふえてきたからかもしれない。しかしわたしは、どんなものでも、順番待ちをしてまでたべたいとは思わないので、ありがたい。

 食後、古書店をのぞいたり、歩行者天国をあるきまわったりした。
 玉川大学に勤務していたころは、よく町田に来たものだが、いまでは、あいかわらず町田市民でありながら、中心街まで出てくる機会はあまりない(そのせいで、町田の中心街は、以前とさまがわりしたと感じるところが多く、おどろきがある)。その意味では≪非日常≫だ。
 ≪非日常≫ではあるが、たまにこうして、いくらかでも余裕のあるすごしかたをしていると、むしろ、ようやく「生活」をしているという実感がわく。

 帰宅後、庭に出てみると、ラヴェンダーの青い花がきれいに咲いていた。2種類、品種のちがうラヴェンダーがある。

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 そのうち片方は、自然に種がとんで、コンクリートのわずかなすき間から生えてきたが、それさえもよくしげり、さかんに花を咲かせている。

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 みつばちがラヴェンダーの蜜をあつめに来ている(下の写真では中央にうつっている)。

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 1週間ほど、≪日録≫を書かなかった。ただただ、いそがしかった。いそがしくて書く時間がないという直接の因果関係のほかに、いそがしいときは、雑多な苦しみが時間を埋めるばかりなので、身辺には書くにあたいする内容がろくにないということもある。

 たとえば、人文学類広報委員の Web 担当のしごとのひきつぎ(従来はわたしが Web 担当だったが、今年度から広報委員長になってしまったので、委員会内で、徐々にべつの委員にひきつごうとしている)で、更新用のサーヴァーに Web DAV 接続をしてファイルのアップロードなどをするという話をしたとき、Windows 7 で Web DAV 接続をどうするのかが、なかなかわからなかった(わたし自身は、Windows 7 はいまだに持ち歩き用としてしか使っておらず、研究室のパソコンは筑波に転職したときに買った6年ものの Windows XP だ)。
 結局わかったことは、この件にかんして Windows XP と Windows 7 のあいだにある差は、実は、「マイネットワーク」が「ネットワーク」になっているといった、たんなる表記上のヴァリアントというわけではなくて、根柢的なちがいであるということだった。Windows 7 は、そもそも設計思想として Web DAV 接続を想定しないで仕様が組み立てられているようだ(深読みすると、マイクロソフトがユーザーに具体的な操作をなるべくさせないようにして、つまりなるべくブラックブックスとしてパソコンを使わせるようにして、ますますマイクロソフトへの盲目的依存を強めさせる戦略ではなかろうか(笑))。
 それへの対処として、Windows 7 でも実質的に Web DAV 接続ができるようにする "Carotdav" というソフトが開発されており、無料で配布されていることも知った。
 http://www.forest.impress.co.jp/lib/inet/servernt/ftp/carotdav.html
 これなら Web DAV 接続でフォルダーをひらいたときと同様の感覚で使用できる。

 と、このようなことは、書くにあたいすることではなかろう(それなら書くな、といわれそうだが)。

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 最近買った本のうち、3冊に言及してみよう。
 1冊めは、アジェージュ Claude Hagège の Contre la pensée unique。「あたらしいアジェージュがここにいる!」という宣伝文句にたがわず、反グローバル化の旗幟を鮮明にしているようだ。現実にせまられて、言語学者にもこのような本を書くひとは以前よりはふえてきたかもしれないが、まだまだ少数派だろう。
 2冊めは、テニエール Lucien Tesnière の Éléments de syntaxe structurale の訳書『構造統語論要説』。昨年出版した『フランス語学小事典』に、共著とはいえ、テニエールに関連する項目(「図系 stemma」)を執筆したわりには、訳書の存在は知らなかった。もちろん、担当した項目についてはフランス語で読んでいたので、しごとのうえでは問題はなかった(と思いたい)が、全体像をみると、実はテニエールは、きわめて多くの言語を研究し、独自の類型論をうちたてていることにあらためておどろく。その類型論とは、遠心的言語 langue centrifuge と求心的言語 langue centripète の分類であり、これは一見、生成文法などでいわれている右側枝わかれ言語と左側枝わかれ言語に似た発想のように思うが、目をつけているところがちがっているので、結果として出てくる分類もちがっている。たとえば、ロマンス系の言語はいずれも「遠心的」であるのにたいして、ゲルマン系はいずれも「求心的」というように、逆のカテゴリーに入っているのだ。
 3冊めは、渡瀬嘉朗『統辞理論の周辺』。フランス語のみならず日本語も対象として、未完了アスペクトについてなど、わたしの研究テーマとかさなるところもあり、興味深い。実は、ともだちの川島浩一郎くんが、フランス語の半過去にかんする最近の論文のいくつかで、「渡瀬嘉朗先生の諸論文に啓発・啓蒙されて執筆した」むねを註記しておられたのを読み、わたしもいやおうなく興味をもっていたので、その「諸論文」が『統辞理論の周辺』にまとめられて刊行されたことはありがたい。

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 ところで、はじめに、「身辺には書くにあたいする内容がない」と、「身辺には」とわざわざことわったのは、うらをかえせば、世のなかには言及したいことがあるということでもある。
 しょせん、手すさびのブログなので、ふつうはあまりまじめなことは書かないつもりなのだが、それでもたまには書きたくなる場合がある。
 書きたいことのひとつは、なんといっても、福井県の大飯原子力発電所の3号機・4号機の再稼動にむけての過程が、いま着々とすすめられていることにたいする疑義である。
 8日、野田首相は「国民の生活をまもるために再起動すべき」と発言し、大飯原発再稼動にたいへん前のめりの姿勢をあらわにした。しかし、「国民の生活」というなら、そんなものはすでに、昨年の福島原発の事故でとりかえしがつかないほど破壊されてしまったのだ。ここでふたたび原発をうごかすということは、福井でも福島の災禍をくりかえす危険性を作りだすことにほかならない。そのどこが「国民の生活をまもる」ことになるのか。
 またいつ大きな事故が起きるかもしれないと考えるのは、けっして杞憂ではないと思う。むしろ、危険だ、という考えがあまりにもなかったことこそが、福島の事故を生んだのではないか。新しい規制機関ができるまでは、安全基準も暫定的なもののままでよいとするにいたっては、「委細はどうでもいいから、とにかく再稼動させろ」という盲目的な推進にほかならない。
 しかし、きのう(13日)は福井県知事が再稼動に理解をしめす発言をし、きょう(14日)は、おおい町の町長が再稼動への同意を表明し、ことは着々とすすんでいる。柏崎刈羽原発が立地している新潟県の知事は、「再稼動など、議論さえできる段階ではない」と、正当な慎重さを示しており、対照的だ。


 わたしのことを、いつもにこにこしているとおもい込んでくださっているかたから、「ストレスはないのですか?」ときかれた(これは、ききようによっては、「おまえはおめでたいやつだ」ともとれる質問だが、わたしがその質問をされたときは、そのようなニュアンスは感じなかった。だからこそ、おめでたいやつなのかもしれないが)。
 いうまでもなく、ストレスは大いにある。いちいち書いているとよけいに気分がわるくなるので書かないけれど、だれしも、現代社会に生きるものの宿命とでもいうべきものだろう。

 もとより、閑適が理想だとおもっているが、事態はその反対の方向にばかりすすんでいるようだ。
 そうなってくるともう、あたかも閑適を生きているかのような感じかたをするよう、みずからを誘導するしかないようにおもう。

 たとえば、拙宅の玄関のわきのわずかな余地に、まいとしこの時期、ムラサキカタバミがきれいに咲いている。出勤まえにはこれをしばらくながめる。
 ありがたいことに、自然に種がとんだらしく、ことしから自宅の敷地のべつのところにもムラサキカタバミが咲きはじめた。

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 そして、しごとからかえってきたら、庭のくりの木の花をながめる。さいわい、6月になって、日暮れがおそくなったので、帰宅してからでもまだ明るいときがある。くりの木は、正月に(しろうとしごとではあるが)剪定したので、全体の形が比較的きれいになったほか、花の咲きかたもさかんになったような気がする。

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 1995年、新婚当初に住んでいた陋屋が、くりの畑に面していた。そのせいか、くりの花をみると、それだけで若かったころをおもいおこし、甘い感傷をおぼえる。

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 日曜だが、フランス語学会の編集委員会に出席するため、茗荷谷(例会の会場とおなじ跡見学園女子大学)にゆく。
 ひさしぶりに議事録作成の担当になってしまったが、パソコンをたずさえてゆき、ほとんどその場で書いた。

 さらに、委員会の席上で、ついついあらたなしごともひきうけてしまった。それだけをとってみると、わたしがになってもかまわない程度の、たいしたことはないしごとなのだが、あちらこちらで、そういうつもりでひきうけたしごとの総量をみると、ぎょっとしてしまう。
 まあ、それでも、この学会に関係するしごとは、まだまだ気らくにできるほうだ。

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 委員会がおわったあと、岡山大学の金子さんと近隣のカフェにゆき、研究打ちあわせ(謀議?)をした。
 まだ確定しているわけではないが、9月以降、いくつかご協力をいただけそうな見とおしになった。

 わたしは薄学にして知らなかったが、近年、対照言語学のテーマとして、≪modal indefinite≫という概念にもとづく研究が進展しているという。とりわけ、ロマンス諸語での比較が進んでいるとのことで、たいへん興味ぶかい。
 統辞的には名詞句周辺のことなので、一見わたしの研究とは離れているが、耳学問をしてみると、じつはいくらか関係していそうで、ひさしぶりに興奮した。
 たとえば、フランス語 quelque (の単数), quelconque、スペイン語 algún, cualquier など、ほんらい無差別をあらわす限定辞のついた名詞が、文のなかで叙法とくみあわさったりして、評価やとりたてなどのモダリティを標示するにいたる現象が問題になっているようだ。
 そういえば、ずいぶんまえ(1982年!)に、キュリオリ Antoine Culioli が、≪A propos de quelque≫という論文で、≪*Quelque employé a oublié de fermer la fenêtre≫とはいえないけれど、≪Quelque employé aura oublié / a dû oublier / a pu oublier de fermer la fenêtre≫のようにモダリティをからめると自然に言えるようになる、という指摘をしていた。

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