日 録

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 きょうは学外会議のしごとがおわったあと、渋谷の東急百貨店本店8階のイターリア料理店≪Tanto tanto≫にゆき、シチーリアの赤ワインをのみながら、イターリア料理を食べた。
 百貨店の食堂フロアーで飲んだのはひさしぶりだ。百貨店で飲む利点は、まちなかで飲むのとちがって、深夜にならないうちに閉店時間がくるので、かえりみちの心配を比較的しなくてよいことだ。
 ここのところ疲労が蓄積していて、弱っていたが、赤ワインをのむと、こころなしか、いくらか回復したような気がする。

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 ここの店は、ピッツァがアルザスのタルト・フランベ tarte flambée のような食感で、わたしは好きだ。

 『日本語学論説資料』採録キタ━━━━( ゚ ∀ ゚ )━━━━ッ!!

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 一昨年書いた論文 「フランス語と日本語における留保マーカーについて」を、年鑑形式の『日本語学論説資料』に採録したいので承認を得たいという通知がきました。
 これは、2006年に書いた「フランス語の「丁寧の半過去」と日本語の「よろしかったでしょうか」型語法との対照研究」、2008年に書いた「分岐的時間の表象を用いた時制・モダリティの連関の説明の試み」がそれぞれ『日本語学論説資料』に採録されたのにつづいて、3度目のうれしいお知らせです。

 しかし、ニホン語についてはついでにふれた程度の、わたしの流し書きの論文(<自分でいうな、といわれそう)でも『論説資料』にのせてもらえるとは、やはりニホン語学はメジャーな学問の余裕があるなあ、とひがみたくなります。
 フランス語学では、『論説資料』はおろか、目録を編むことさえままなりません。ほぼ唯一の目録だった『フランス語フランス文学研究文献要覧』は、発行者である日外アソシエーツが、編者であるフランス語フランス文学会に事前のことわりなく既刊号をウェブデータベース化し、有償で閲覧に供するという、信義に反するできごとが起きたのを機に、一頓挫してしまいました。┐(´ー`)┌ヤレヤレ
 くもりで、はだざむい。東京の最高気温は14.6度。しかし、暑いよりはよい。

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 連続実施される研究会と学会のため、茗荷谷にゆく。
 ことしは学会の例会の会場が跡見学園女子大学文京キャンパスになったので、茗荷谷に来る頻度が高くなりそうだ(3月30日にも茗荷谷に来たが、そのときは進学説明会のしごとで、筑波大学の文京校舎に来たのだった。跡見学園女子大学、筑波大学のほかにも、御茶の水女子大学、拓殖大学などのもより駅が茗荷谷なので、このあたりには大学が多い)。

 わたしとともに研究会の世話人をつとめる塩田さんとまちあわせて、≪日本海≫で昼食をとりながら打ち合わせをする。といっても、気らくな会になるよう、ゆるやかな運営をしようということで意見が一致したので、こまかなことはとりきめない。
 ちらし寿司をたべたが、洗面器のような、やたらに大きな寿司桶にはいっていたので撮影した。

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 跡見学園女子大学にははじめてきたが、駅からたいへん近く、まあたらしい校舎が、見たこともないほど瀟洒なデザインで、どこをみてもたいへんうつくしく、おどろいた。

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 とりわけ、会場になった教室で、教卓の背後にある、ただの壁だとおもっていたところが、マーカーで板書できるホワイトボードであることを理解するのにしばらく時間がかかった。
 しかし、へたに受け皿などあると汚れがたまるので、壁だけのホワイトボードは、デザインとしてしゃれているだけでなく、合理的でもある。

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 上の写真は早めに着いて撮ったので、閑散としているが、じっさいには研究会、学会はいずれも盛況で、ひさしぶりでお目にかかる方もおられたりして、なかなかよかった。

 帰宅後、慢性的なつかれがふきだし、すこし娘の相手をしただけで、いろいろ懸案がたまっているのに、どうにもだるくて、手がでない。
 しばらく休んだあと、研究会のホームページから東大の守田さんのホームページにリンクを張ったり、このブログを書いたりと、不急のことしかしなかった。
 ほんらい優先順位の低いはずのことから手をつけたり、まして、そのようなことだけをしてしまうのは、わたしのわるいくせだ。このくせを煮つめてゆくと、まちがいなく一種の行動障碍になるだろうと思う。
 ただ、もっと公的なしごとは、どうせ週末が明けるまで、わたしだけが動いてもそれを受けつける側が休みなので、明日の日曜まではさぼっていても実害はない。そのようにひらきなおっていること自体が怠惰だといわれれば、そのとおりなのだが。
 スペインの格言にいわく、≪No hagas hoy lo que puedas dejar de hacer también mañana≫(あしたでもできる (として放っておける) ことを今日するな)! この種の批評性は好きだ。

 晴れ。夜は雨。

 月曜から木曜(きのう)までつづいた一連の新年度のガイダンス関連業務で、ゆうべは泥のように疲れて帰宅し、わたしにしてははやくから就床した。
 人文学類の教育課程委員をしているほか、今年度から広報委員長にもなったので、この新年度始業期は、広報委員長としてのしごとも多かった。
 わたしが大学に入学したのは1987年のことだから、ことし入学する学生とのあいだには、25年の差があることになる。ガイダンスのとき、そのことに言及しながら、自分でも愕然とした。ときがたつのははやい。
 年々、大学の新入生の圧倒的な若さに「あてられる」ような感覚が強くなってきた。しかし、人文学類の専攻別説明会で、相談にきた新入生に個別に接していて感じられる熱心さには、感心することが多い。

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 きょう、4月13日は石川啄木の忌日で、ことしで歿後100年だそうだ。
 じつは、わたしの祖父母の忌日でもある。祖父母は、たがいに3年をへだてて、偶然にも、おなじ日に亡くなった。

 きょうは午前中、呼吸器科にゆき、持病の気管支喘息の定期受診。
 先月、ウズベキスタンに滞在したとき、最後の2日間の氷点下の寒さでかぜぎみで帰国し、それ以来のどの調子がわるいとおもっていたのだが、機械を使って測定する呼吸機能検査の結果はむしろ好調で、主治医がカルテに「上々」と書くほどだった。
 それで気をよくしたわけではないが、ちょうどひるどきになったので、昼食に、ひさしぶりで(健康上の理由で、たまさかの楽しみにしている)≪町田家≫のとんこつしょうゆラーメンをたべた。

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 自宅の庭では、例年、白水仙よりおくれて咲く黄水仙が、ようやく咲いていた。

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 フランス語を学習しはじめたころ、フランス語では白水仙 narcisse と黄水仙 jonquille は色の形容詞で区別するのではなく、単語レヴェルでちがうということにおどろいたものだ。それももう25年まえのことになるのか(歎息)。

 年度があらたまった。2012年度、わたしは筑波大学人文学類の広報委員長をつとめることになっ(てしまっ)た。
 しかも、きくところによると、各学類の広報委員長がまわりもちで担当する、人文文化学群(人文学類の上位組織)の広報委員長も、今年度は人文学類の広報委員長が兼任すべき年度らしい。
 先日の進学説明会も、じつは4月からわたしが広報委員長になる予定にもとづいた、やや尚早な任務であった。
 前委員長からひきつぎをうけ、そして、わたしと同様、前年度からひきつづき委員をつとめておられるかたから、これまでわたし自身も分業の一部をになっていたため全体を把握していなかった委員会の業務について知らされ、あらためて、これはえらいことになったとあわてている。

 新年度といえば、風物詩のように入社式が報道され、ときおりそれにともなう奇矯なイヴェントもまた、受容すべき「社風」として肯定的にえがかれているのをみると、なにやら、≪もう飛ぶまいぞこの蝶々≫といったこころもちになってしまう。
 そして、このようなときにいやというほど反復される「社会人」という表現にも、たいへんな違和感をおぼえる。これについては、わたしの旧ブログ(2004~2010年)で、2005年5月9日に書いた記事、「「社会人」というおぞましいことばをめぐって」を以下に再掲しておこう(なお、当時採取された魚拓がつぎのところにある http://web.archive.org/web/20100323170549/http://blog.muzik.gr.jp/junya/main/archives/2005_05.html )。

「社会人」というおぞましいことばをめぐって

いまさらいいふるされたことではあるが、「社会人」とは、いくえにも不愉快なことばだ。
あらゆるひとは、どれほどいやでも社会に「強制加入」させられている(ほんとうにつかわれることばとしてある年金の「強制加入」もまた、まさしくその事実の一環としてある)のであるから、「社会人」ということばじたいは、ほんらい「白い雪」とおなじくらい剰語的なはずだ。
が、その剰語性が、おぞましい解釈に介入する余地をあたえてしまったようだ。たいへん奇妙なことに、じっさいには、賃労働に従事していなければ「社会人」とはよばれない。しかし、賃労働がそんなにりっぱなものなのか。企業倫理の堕落や、役所の腐敗ばかりが目立ついま、賃労働に従事することがむしろ、害毒をたれながすことと同義になる局面さえあるではないか。
それはさておくとしても、「社会人」なるものを、あたかも対概念のように「学生」と対置する範列はいやというほどみせられている。しかし、まさか学生が社会の一角をなしていないなどと言うつもりではなかろう。

こうした問いへの対処としてあみだされたのかどうかはわからないが、「実社会」というべつの剰語がある。なんの意味があるのか。「実社会」と対置するべき「虚社会」があるとでもいうのか。そんなものがあるのなら示してほしい、わたしはむしろそこで生きたいから。
かくして、「実社会」とは、経済や政治など、社会の動因とみなされている領域にかかわるもののみをかこいこみ、それへの実利をもたらさないと(じつはたいした根拠もなく)おおかたに断じられたものを排除する仮想団体である。
大学教員で、しかも言語学という(これまた、じつはたいした根拠もなく)「非=実学」とみなされている学にたずさわっていると、これはもう「実社会」からは遠い、世間ばなれした人間であって、「社会人」であることはいちおうみとめるにしても、かなり周縁的な成員であるとみなされるらしい(ことなる職業をもつひとたちとの遠慮をおかない酒席で、「カタギではない」という素朴で愉快な形容をちょうだいしたことがあった)。

ここで、「実社会」観念をおぞましいといいながらも、排除を不当だといっているおまえ自身は、「実社会」へ編入されたいのか、されたくないのか、混乱しているのではないかという反問が予想される。
もちろん、されたくない。されたくないから、じっさいに、「実社会」と一般に想定されているものからは遠ざかるようにこころがけ、その仮想団体の外側か、かなり周縁部に棲息しているつもりだ。
しかしそのようにして質問にこたえること自体がまずいかもしれない。実利的であるとみなされている範囲が、幻影にすぎないのであるとしたら、それにくわわりたいといっても、くわわりたくないといっても、無根拠な前提をともにみとめることになってしまう。

もっとも、つごうよくじぶんたちの棲息する擬似的空間を表象するために、「実社会」のようなメタファーがあるのだとすれば、うらがわからもそれをつごうよく利用させてもらうこともある。
たとえば、学生の就職指導を大学教員にもとめられる場合、学的なキャリアーだけをもっている教員は、「実社会」の経験がもっともとぼしい人種であるから、企業就職などを指導するにはもっとも適しないといって逃げるわけだ。ほんとうは劃定できないものであるからこそ、つごうよくつかわせてもらうこともできる。

「社会人」「実社会」ということばを、わたしのようにあくまでも反語法的言及をあらわす括弧つきでしかつかえないひとと、当然のようにつかえるひととのメンタリティーのちがいは、たいへん大きいようにおもう。
「社会人」「実社会」ということばをあたりまえにつかえるひとは、明示的にせよ暗示的にせよ、「実社会」の現働化にちからをかしていることが「生きがい」であり、多かれ少なかれ貴いことであるようにおもっているひとが多いように思う。しかし、それが自己過信であることは、しばしば事実によって証明される。
たとえば、企業につとめるひと、とくに男性で、病気や育児休暇などの理由でしばらく休職して、職場に復帰したとき、自分のいない間にも会社がさしつかえなくまわっていたことを知り、自分はいなくてもよかったのかとショックをうけた...という話を、いくつものちがうところで耳にした。
しかしそんな話は、きいているこちらのほうが、ショックがおおきい。そんなことを本気でおもっているのだろうか。わたしなら、みとめられて休んだのなら、そのあいだのことなど知ったことではないし、かりに責任を感じるとしたら、むしろうまくまわっていたことをよかったと思うほうだ。
些末な例のようだが、あんがいこんなところに根柢的な考えかたのちがいがあらわれているのではないかとおもう。

...「公共の利益」、「一般意思」、「全員の幸福」といったイデオロギーも、おなじ幻影の原則、精神を魔法にかけ、社会的法則に従属させる最終的調和の見とおしにもとづく。これらすべてのイデオロギーの根柢に、おなじ詭弁、おなじ循環論法がみられる。すなわち、「真の利益」「真の幸福」は、社会のために役立つことであると証明する際、とわれていることを前提にしてしまっているのである。そこから出発して、さらに、ちがったふうにふるまうあらゆる個人は、「いつわりの幸福」をおいもとめているにすぎず、そのようにして他者にも自分にも害をおよぼすことをやめさせなければならないと宣言するにいたる。「一般意思」、「公共の利益」、「連帯」もまた、同様のイデオロギー的妄想であり、個人を、うたがわしい影でおいまわし、支配するのである。それらの妄想はまた、ルクレティウスのいう「宗教の亡霊」にも似る。
―― G. Palante, Les antinomies entre l'individu et la société, p.160. 拙訳。

 もう7年まえなので、いまわたしが書いている文よりさらに青くさい文だが、おおすじではいまも考えはかわっていない。ちなみに、この記事は、「はてなブックマーク」や、「2ちゃんねる」(!)でも関説されていたことを、いまさらながら知った。

 一昨日(4月1日)、ふだんならただ説教くさすぎて読むはずのない朝日新聞の求人欄の連続インターヴューに、内田樹氏が登場しておられたので、一読したあと、内田氏のウェブサイトを見たところ、「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」という、いっそう興味ぶかい記事があった( http://blog.tatsuru.com/2012/03/22_1721.php )。
 新聞にどれだけ思いどおりの内容が掲載されるかわからないので、手かげんのない内容はウェブサイトにしるしておくということらしい。新聞への掲載は4回中の初回なので、読者としてはまだこのあとどのようになるかがわからないが、初回に一部掲載された、対応する部分の内容をみるかぎりでは、たしかに、すでに若干オブラートにくるまれているように感じた。なお、新聞の内容も順次ウェブサイトに転載してゆくようだ( http://blog.tatsuru.com/2012/04/02_1306.php )。
 わたしは、「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」の冒頭ちかくにある、

若い人たちの言う「自分の適性にあった職業」というのは、装飾を削ぎ落として言えば、「自分の手持ちの資質や能力に対していちばん高い市場価値がつけられる職業」のことである。

というくだりにだけは賛成できない。
 わかいひとのいう「適性にあった職業」は、おそらくもっと感性的に、ここちよくそのことにかかわっていられる、という程度のことを意味しているのではないかと思っている。そうでなければ、「あこがれの業界」であるから、などという理由で、雇傭としてはきわめて劣悪な条件をしのんで、ながねん苦労しつづけている若者たちもまた、おびただしくいるという事実を説明できない。
 しかし、それ以降でのべられている、「費用対効果を最大ならしめる戦略」の愚かさについては、まったく同感である。部分的に引用しよう。

消費者マインドを刷り込まれた人たちは、「限られた持ち金でどれだけ有利な取引をするか」、費用対効果にしか興味がない。
それは大学で教えているとよくわかる。
学生たちは単位や資格や学士号の「市場価値」はよく知っている。
だから、それを手に入れることを願っている。
でも、条件がある。
「最低の代価で」というのがその条件である。
消費者なんだから当然である。
最低の代価でもっとも高額の商品を手に入れたものが「賢い消費者」である。
学生たちは子どものころから「賢い消費者であれ」ということを、ほとんどそれだけを家庭でも学校でもメディアからも教え込まれてきた。
だから、大学生にとって最優先の問いは、「最低の学習努力で最高の教育商品を手に入れるためにはどうふるまえばいいか」である。
単位をとるために必要な最低点が60点で、出席日数の最低限が3分の2であるなら、「きっかり3分の2だけ授業に出て、きっかり60点の答案を書く」学生がもっともクレバーな学生だということになる。
たしかに、今の学生たちはそう信じている。
60点で合格できる教科で100点とる学生や、3分の2出ていればいい授業に皆勤する学生や124単位とれば卒業できるのに180単位もとった学生は「100円で買える商品に200円出している消費者」と同じようにナンセンスな存在なのである。

 わたしが学生だった二十数年まえは、このような行きかたは、とりわけ修学時代にあっては、すくなくともおもてむきは忌避されるべき、「小ざかしい」、「はずかしい」ふるまいであるという共通理解があったように思う。規準的な「到達目標」との対比での圧倒的な超過達成は、同級生のあいだでも尊敬をあつめていたし、それこそがほんとうの「目標」のように目ざされていた感がある。
 しかし、「それに対して現今の学生は、、、」などといいだしては、おそらく、いけないだろう。いまの学生の一部にそのような「消費者マインド」があることはまぎれもない事実だが、かつてそのような傾向がなかったといえば、うそになる。むしろ、そのような傾向が存在したからこそ、「小ざかしい」と忌避されていたのだろう。いつの時代にも、小ざかしい者はいる。

 ところで、以前もいまもかわらず、「消費者としての賢明さ」を修学にもちこむことの愚かさはまた、じつはそれがけっして「効率的」でもなければ、「有利」でもないところにもあると思う。
 むしろ、小ざかしい計算をいっさい無効にするほどの「圧倒的な超過達成」こそが、すべての展望を一挙にひらくという意味で、もっとも「効率的」であり、「有利」なのである。
 上で自己引用した旧ブログでも表明した、どちらかというと徒食者的なわたしの態度からは、このような「最大限綱領」的な言明は予想できないかもしれないが、ナマケモノであればこそ、ほんとうの「効率」を直感していたのかもしれない。

 「『赤毛同盟』と愚鈍の生成について」での内田氏の議論はさらにすすみ、ふたたび一部引用すると、つぎのようなことをおっしゃっている。

有利な交換を求めるものは、自分が市場に差し出す手持ちの財の価値を他者が過大評価することを切望する。
当然である。
けれども、この「賢い消費者」たる交換比率原理主義者をあるピットフォールが待っている。
それは、「彼が市場に差し出す財の価値がゼロであるとき、交換比率は最大になる(だって無限なんだから)」ということである。
つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する。
つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。
悪魔的なコロラリーだが、現に、日本社会はそうなっている。
学生たちは愚鈍さを競い、労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶという倒錯のうちに落ち込んでいる。
それは彼らが怠惰であったり、不注意であったりしているからではなく、「有利な取引をするものが賢い」という市場原理のルールをあまりに深く内面化したことの帰結なのである。

 「労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶ」というのは、「自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願う」こととは明白にことなるので、ここにもいささか飛躍があるように思うが、しかし市場比率主義のゆきつく先が、全体として低い水準での競争を希求することであるという趣旨は理解できる。

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