日 録

 きょうはしごとがおわったあと、世田谷区池尻にあるフランス料理店≪Bistro Apti≫にくりだし、ワインをのんできました。料理もおいしく、また来ようと思いました。



 ハム、サラミ、自家漬けオリーヴ、リエットなど。



 フォワグラなどのはいった、「美食家のパテ」。



 そば粉のヌイユ(というのは、単純にいえば「そば」じゃないか?)。



 ひらめの赤ワイン煮。



 かもとソーセージのカスレ。

 きのうは、大学院ガイダンスのため筑波大学に出勤した。



 ほんらいは学群・大学院とも入学式のはずだったが、講堂の安全が確認されていないとのことで、入学式は中止された。しかし、式典をしないというだけで、ほかの始業日程はいっさい変更なしという、なかなかの強行スケジュールだ。関東のなかでも地震の被災地に近いわりには、意外と思われるような方策ではなかろうか。大学院ガイダンスはきのうで、学群ガイダンスはきょう以降(そのなかで、わたしの出番は12日)だ。







 学内は新入生でごったがえしていた。率直にいって、にが手な光景だ。春休みで社会的ストレスの閾値がさがっているところに、にわかに喧噪のなかに立たされるのはつらい。
 それにくわえて、4月のはじめは季節のかわり目でもあり、ついでながら私情もいろいろあって、どうしても精神が波立ちやすい。こんな時期は、もっとしずかにすごしたいものだ。ちょうどこのころから復活祭の休暇にはいるのがヨーロッパのこよみだが、それは、季節のながれにかんしてつみあげられてきた智慧というものではなかろうか。それにひきかえ、4月から新年度というニホンの制度は、いささか非人間的とさえおもってしまう。

 しかし、おなじ新学期の喧噪でも、筑波大学では、ひとつには広大なキャンパスなので、ひとが集まっているところをすこし離れるといつもどおり人口密度の低さを感じられることと、もうひとつは、わたし自身が若かりしころを思い出すこともあり、いくらか苦痛がやわらぐ。
 1987年の春、筑波大学に入学がきまり、学生宿舎に入居したとき、土浦にある日本通運系の会社、湖南通運が一手に引っ越し荷物の搬入をひきうけていた。といっても、部屋までもってきてくれるわけではなく、しかも、いつ着くともわからなかった(当時はまだ、宅配便などがいまほどきめこまかではなかった)。太陽の照りつける共用棟前の広場に、おびただしく山づみになった入居者の荷物のあいだをかきわけて、その時点では着いているかどうかわからない自分の荷物をさがして途方にくれていたときのことを、いまも鮮明に思い出す。「想像のなかの中央アジアのバザールのようなところ」と形容して日記に書いたものだ。

 さて、きのうのはなしにもどす。午後、文芸言語専攻のオリエンテーションのあと、各領域にわかれてガイダンスをした。今春の新入生は、フランス語学領域(つまり、フランス文学をふくめず、言語学だけで)だけで4人という、空前の多さだ。しかも、出身大学(愛知県立大学、中央大学、獨協大学)、研究テーマ(動詞時制、フランコフォニー、日本語教育、フランス語・日本語の対照研究)とも多様性に富んでいる。なかまがいて、しかも多様であるということは、大学院生としてはめぐまれた環境ではなかろうか。



 17時ころまで新入生のみなさんと話し、17時30分からA先生、Tくん、Mくんとわたしの4人で、大学にほどちかい≪きく乃家≫に行ってビールを飲む。そのあと、いも焼酎≪七夕≫にきりかえ、4人で1本のボトルをあけた。22時ころ帰途についた。

 時間的に、かえりの電車が混んでいるかと思ったら、そうでもなかった(つくばエクスプレスの車内だけは、新入生に配布される筑波大学のオリジナルトートバッグをさげた学生がけっこういた)。やはり、しごとがえりに酒をのむといったライフスタイルをとるひとは、震災後かなり減ったのだろう。電車の運行もいつもどおりではなく、「終電の接続は保証しません」という注意書きまである。
 小田急にのりかえて、経堂まできたとき、電車のなかでもはっきりとわかる大きな余震があり、しばらく停車した。当然というか、午前の帰宅。
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